昭和39年12月5日   朝の御理解


 甘木の初代が、あるお弟子さんに、いよいよ布教に出られると言う時に際してから、お話しを御理解を下さっております。今頃ではな皆んな電車の中でも道でおうてもあなたは、どちらおいでですかと、甘木参りでございますと、あ-そうですか、私しも甘木参りと言う様になったと。甘木には随分神社仏閣も多いけれども、甘木参りと言えばもう甘木の金光様にお参りをしておると言う様に通じる様になったと、おっしゃっておる。ね。甘木の町には神社仏閣が多いけれども、甘木参りと言やあ甘木の金光様参りと皆ながやっぱ相場が決ってしもうたと、私しが言われる様に、あんたの、今度、布教さしてもらう町でも、ね、どこどこ町参りしよると、こう言うたら、「あ-金光様参りですか」と、こう言われる位いのおかげを受けないけんばいと、おっしゃったそうですね。
 いつでしたか、中村さんが、言うておられましたが、もう私が、表でよると、「おばしゃん椛目参りじゃろ」とゆうてから皆んなが言うて言うわけですね。
 もう今頃はあなた、朝、電車のあのやみがえさん達までが「オ-椛目参りなさるですか」と、あいさつがわりに言うて下さると、こうその位いに私は、御広前もそうならです、やはり信者さん、皆さん方も、やはり、その位なものが、ねえ、他に行きよっても「あ-椛目参りであんなさるか」とこう言われる位いな椛目参りが出来いけんと思いますネ。
 又、その位に人に認めてもらえる位いなおかげを頂くためには、やはり皆さんが、おかげを受けないけません。
 本当に皆んながもう本当に辛抱なこっちゃあるともう、辛抱に参んなさるとやっぱ参なさるなら参なさるがた、おかげを頂きなさると、人間の上にも家族・家庭の上にもなにかんの上にやはりあれが金光様のおかげじゃろうとこう信心のない者でも、まあ思いをする位いのおかげはやはり頂かなければいけません。ね-
 やっぱり、自分の性根がわかる、性根がようならないけません。人間が変わらなでけません。もうあすこにはもう長い金光様の御信心者である。一家を上げて熱心なこっちゃあると、認められ、言われながらでもです。それが、その人の信心を認められない。おかげを人が認めてくれないならば、これは神様に対して相済まんことです。ね。
 昨日、四日会で秋永先生が言うとられます。先生方昨日は、やまごと長田先生、桜井先生も見えておりましたから、熱心に信心の話し合いがあったらしい、私は、いつも、タッチしませんから内容は知りませんけども降りて来てからです。秋永先生が、こうゆう事を言うんですネ。先生、あたしは、この前の御月次祭の時、先生がお説教の中でおっしゃった事、あたくしは、あげなふうには、いっちよん思いませんがねと。こうゆう訳けです。
 この前の御月次祭に私はこうゆう事を申しましたですね。私は、寝ても、覚めても思うておる事。同時に、私は、神様が、段々解ってくればくるほど、それがいよいよ、強なって来ると、言う事。神様の働きを信じれば信じるほどこの思いが強くなって来ると言うてお話しをいたしました事、寝ても覚めても、私は思うておる事、それは、私はいよいよ寛大になりたいと言う事。いよいよ、かぎりなく美しゅうならして頂きたいと言う事。
 もう、この事を思い続けておる、寝ても覚めても。この事ばかり神様が信じられる様になり神様が解れば解かるほど、この思いが強なるばっかりだと言う様な事を申しましたですね。秋永先生が言わくですね。あたしゃあげなふうには、いっちょん思いませんてこう言う。んならどけなふうに、あんた思いよると。
 あたくしも、やっぱ寝ても覚めても、最近思いよる事がございます、と。けども、あげなふうにゃ思いません。どげなふうに思いよる。どうゆう自分が、在り方にならしてもらい、どうゆう信心にならせて頂いたら、親先生が喜びなさるじゃろうがと、いう事だけしか思いませんがって、やはり、同じことだねと、まあ-言うた事ですけれどもねえ。
 皆さんどうでしょうか。寝ても覚めても、自分の事ばかり寝ても覚めても自分の事もちろん自分の事ですけれども自分の、いわばああもありたいこうも、おかげを受けたいと言う事ばっかり。自分の家のああありたい。自分の商売が、こうありたいと言う事だけ、こうゆう程度の信心の間はですね。人に私は認められる様な、おかげは受けられないと思いますね。いわゆる御利益本位の信心ですから、その御利益本位と言うならばゆうなら我情我欲を満すための信心なのですから、人にそれが魅力と言う様な事にまではならないだろう。光と言う事には、ならないだろうと私は思うですね。
 自分の商売、自分の御用を通して神様に喜んで頂けれる様な神様に喜んでいただける様なおかげが頂きたい。
 もうそれを、端的に言うなら秋永先生は、それを親先生が、どうゆう自分が信心にならせて頂いたら喜ばれるじゃろうかと、言う事だけを考えておるとこう。
 今朝、私、御神前に出ましたら御言葉にですね。z「かえりみはせじ」と言う事を頂きました。この事から、私くしは、感じたんですけれどもネ。ただ今の御理解を頂いておるわけです。自分の事は、返えり見ないと言う事。自分の事なんか考えないと言う事。
 ある人が私に、こんな事を言った人がある。
 一生懸命御用さしてもらいなさい。ところが、御用が多いけれどもネ。
 例えば、私は、こうゆうその事を話さなかったけど、そうゆう意味の事を話した。私は、福岡の修行中の時分です。
 ある大きな教会に、もう長年、もう自分の親戚の方の中に、教会をもっておられる方達も、あると言うぐらいに、親戚上げての御道の信心を頂いておられる方、福岡で料亭をしておられた。女ながらも、あの戦時中に、飛行機を一台献納されたと言うぐらいに御用が出来る方であった。
 ところが、もうそれこそ、もう全然お商売がふるわなくなった。
 そうゆう事を境に、勿論そら自分の財産から、あるものから出しちゃったつじゃなかったです。その事を願い、そのおかげを頂いたから、そのあの当時やっぱ一万円からだったんでしょうね。飛行機一台お献納された。金光様から、御本部参拝すると、いつも御書き下げを頂く人である。ところがね、今頃はもう、頂く金光様の御書き下げがまあちぃ-そうなってもう、あの真書で書いたごつ私、見せてもらいましたがね。もう小さい小指頭、位に書いてある。なになに氏子と書いてあるのが初めの間は、肉太く頂きよったところが最近ではもう、本当に消え入らんばかり小さい。わざわざ金光様は意識してかきなさっとじゃろかと言うぐらいに小さくなっとる。それが気持が悪して気持が悪してたまらんち。どうゆう所に、私は、御用をさして頂きよるけれども、おかげ頂かんじゃろかと、こうゆう訳ですね。どうでしょうかね。
 これは、まあ、飛行機を作ったみっけもんだったですけれども、一生懸命皆、皆さんが、御供をなさる、その御供がですね、それが、教会内でいらん事に、それを使われる様な事になったら教会の人達がただ、贅沢しなさることのためにだけ、行使される様になった。
 こりゃ、神様のきかんに適いませんよネ。皆さんが御供をなさる。ここで言うなら、私が、そのお金をいよいよ神様に喜んで頂ける様な事に、行使する。それを使用する使う。それで初めて神様の御喜び、そして御広前の繁盛、そして皆さんの繁盛と言う事になるのと私は思うのです。ね。
 その方がそんな事を、お伺いをなさいました。
 まだ、G私が長浜町におる時分でした。毎日、参ってみえるんですね。色々お話を頂いてから、そのおかげを頂かれて料亭から旅館に切り変えられた。それから、おかげを受け現在までおかげを受けておられます。その時なんか、大変な宏大なおかげを受けられた方なんです。
 けれども、私、そのことのことをお願いしてもらいよったら、z草履をですね。雨降りかなんかに履いたような、雫のスタスタ落ちる様な、草履を、こう竹に刺してから、つり下げられておる、ぶら下げられておる所を頂いた。それで、私が申しました。
 あんたが使う事の出来ん時に使こうとるからたいて、私が・・・。
 いわば、人殺しの材料を、あなたが御供えさすけん、神様がすきなさらんはずたい。この神様は、日本だけの神様じゃないもんだから、世界中のいわば氏子、どこの誰であろうがですね、他人とゆうは、なきものぞとおっしゃる様な神様なのだから。その事が御機感にかなわなかったんじゃ。使うこつも出来ない時に、御供えしちゃならん事に御供えした。それが、ぶら下げられて、いわば、雫の落ちるまでは、仕方がないじゃないか、と私が申しました。
 「ハァ」そうゆう事もありますか。もう御用さえ頂けりゃよかごと、思うておりましたのにと言った様な事でしたが、そうゆう意味の事を、私は、話したんです。
 そしたら、その人が言わく、例えばです。例えば、そんならその事によって、その教会なら教会に御供えさしてもらおうと。例えば、先生なら先生がそれを良い事に使い切らんと言う場合であっても御供えしたもんだけは助かるとね。その程度に思うておる、私は思うね。私だけは助かろうばってん、教会が助からんごたる事は私は出来んと私は申しました。
 私が、御供えをさして頂きゃですね。教会は例えば、ほんなら、使いみちが悪いと、教会自体がおかげ落とす様な事にもなろう、けれども御供えしたもんだけは、その真心は神様が受けてくださるからおかげを頂く、とこう言われるから、私が、おかげを頂こうとは、思わんとこれは。私は、むなしゅうしとかなければ後は、自分と言うものを返りみないと言う心がなからなければ、その信心は、いけんと思ったですね。
 その、教会のそんな人達が沢山あります。まるで自分を、おかげ頂くために御供えしよる。教会はどげんなっちゃよか、ね。
 そんなら、甘木の初代の親先生やら久留米初代親先生やらの場合だったら、どれだけ信者がお供えしてもお供えしてもです。ね。お供えすればするほど信者もおかげ頂いた。教会も繁盛した。けれども、そこん所一つ間違うと、だからそうゆう事を覚えておる人がですね、お供えすれば助かると言った様な事ですね。自他共に助からなくても、お供えした者だけが助かる。そうゆうお供えなら、私はしようごとなか、そげな御用なら私は出来んと。自分が助かりさえすればよいと言う事じゃないものね。
 私がまあだ修行当初のころ、ここに椛目がこうして開けてない時、御本部参拝さして頂いてから奥城で頂きました御教えの中に、四神様は、二代金光教様ね、は、言うなら三本鍬の様なもの、教祖の神様の修行さしてもらう信心を受ける時には、ひら鍬の様なもの、三本鍬で言うなら、荒れ地を打ち耕す、四神様の修行を頂く時が一番きつい、つらい時である。打ち耕されておる時、ね。いくら耕しても耕してもなぁにもそれに対して、そんなら、おかげらしいものは生まれてこない。
 それから教祖の神様の御修行になり、だんだん穏やかになって今度は、そこの打ち耕した所を、平鍬できれいに畝を作ったりまあ、それまではまだ何にも、段々苦労は少なくなるね。
 けれども、それまではまだ何にも手はやいていない。いよいよ信心が四神様の御信心から教祖の神様の御信心と、いただいていくと、段々ありがとうなってくる。いわゆるもう自分と言うものを返えり見てないわけなんです。
 そして、もうとにかく、喜びの種を蒔いてまわるね。そこから、天地の親神様のいわば御光なり、お恵みなり、みずけとか、御陽気とか言うものが、そそがれる。そして、初めて芽が出る初めて花が咲く、初めて実が実のると言うおかげになるとおっしゃる。そうゆう事を頂いことがあるんですね。
 私くしが今日の御理解を頂いて、最後に、その事について、ただいま申しました様なことを感じた。そして、今立ち上がろうとします時に、z内田耕治と言う事を頂いた。内田さんの二番目の息子の名前なんです。内田耕治こうは耕すと書いちゃる。耕し治めると書いてある。内田と言う事は、内の田と言う事でしょう。自分の内容と言う事である。自分の内容を打ち耕すと言う事は、どうゆような事かと。それを段々自分の信心が成長のおかげを頂いて例えて、言うならばですね。どうぞ、私くしの、まあ、火難、盗難こうゆう様な事を申しますが、火難でもですね。どうぞ、火事にあいません様に、火事を起こす様な事がありません様に、とゆう事を、自分方だけ願ったとこで隣りから燃えて来るなら、どうするですか。
 そこで、その事もさる事ながらやはり、自分の隣り近所の事までも、祈り願わなければ、いけないと、ゆう事になるでしょう。
 祈りの範囲が大きゅうならなければ。自分方の繁盛ばっかり願ったっちゃダメね。
 自分の近所にある、お店もどんどん繁盛せなぁね。だから、町内なら町内の繁盛を願わしてもらう、その中に自分もあるのである。どうゆう様な信心さしてもろうたら、親先生が喜びなさるじゃろうか、そこに親先生を中心とした所の祈り、椛目を中心した所の祈りがなされてくる。椛目の繁盛の中に自分自身もあると言う事になるのです。
 それには、自分と言う者がやはり自分の事をかえりみらんとゆう位な信心がなされなきゃならんのにただ、自分の事でキュウキュウとしておると言う信心が、いつまでも続いてもです。続いたのではです。私は、今日一番初めに申します様に甘木の親先生が、おっしゃったと言うね。どちらまいり、どちら行きですかと、甘木参りですと、はあ私も甘木参り、その甘木参りちゃ、どこかと、甘木の金光様参りと言う事であった。
 沢山の神社仏閣もあるけれどもね。甘木参りと言やあ、もう金光様参りに相場が決まっておるようなひれいを甘木は、頂かれた。
 これから出られる御弟子さんにもあんたが、今度、布教に出るその町が、皆んなが、そうふに言う様な、おかげを頂かなければ、ならんとこう言われた様にです。又、参って来る、皆さんとしてはです。中村さんじゃないですけれども、はあ椛目参りでっしょって、皆んながもう自分が外へ出たら、椛目参りと思うちゃる皆んなが。と言うぐらいに皆が有名になると椛目参りが、そら有名なっただけじゃでけんと、あれだけ有名な椛目参りはしなさるが人間も家族の上にもいろ何かの上に、おかげを現していく所の、おかげを頂くためにですね。
 いつまで参っても、いつまで参っても、自分の事だけにきゅうきゅうとしておると言う信心からね、自分をかえりみないで済む位いな信心に育っていかなければいけない。
 その事が、寝ても覚めても、思い続けられると言う様な信心にならせて頂けばです。自分をかえり見ないと言う事になったら、神様が、あたくし共の事は、見てくださる、おかげになって来るだろう。ね。
 そこに、私は、皆んなが、認めてくれる様な認めて下さる様な神様に喜んで頂ける様な信心が出来ると思う。自分を返り見ないと言う様な信心こそです、自分の内田を奇麗にしていく事であると言う事。そこに、信心の喜びの種を蒔かせてさえ頂けば、天地の親神様の御働きによって、必ずおかげの芽、喜びの芽が、実りが頂ける様なおかげになると、そうゆう、おかげを頂いた時に初めて、私は椛目参りの意義と言うものあると思うのですね。
 ただお願いをした事が、おかげになると、その頂いた、おかげが、それぎりのもの、頂いたおかげによって、おかげを頂いたけれどもそれがおかげの元にならない。次のおかげの元にならない。イヤそれが、かえっておかげ落としの元にすらなる様な場合すらある。
 きのうの朝の御理解の中にもありました様におかげが、おかげを生んで行く様なおかげにならなければ、いけないおかげが、おかげを生んで行く様な信心、ね、これは、尽きる事のないおかげ。そうゆう私は、基礎と言うものがです。ただいま申しました様な自分を返り見ないと言う様な所から、そうゆう、おかげが信心が頂けるのではないかとこう思うんですね。おかげを頂かねばいけません。